郷土の歴史
私たちのまち・豊橋市は、愛知県の東端に位置しています。豊橋平野を中心に、市域の西側を大河・豊川が貫流し、東側と北側は赤石山系の山地、南側は三河湾と太平洋に囲まれた自然豊かなところです。
また一方で、農業や工業などさまざまな産業を基盤に、愛知県第4位の人口を有する中核都市として発展してきました。
さてそんな豊橋市ですが、意外に知られていないことが多いようです。ここでは、時代を追って豊橋のまちの成り立ちをご紹介しましょう。
旧石器時代
はるか昔、10万年の人類・牛川人の話です。
人類が誕生したのが、今から約400万年前のアフリカ大地溝帯周辺と言われています。約200万年前には、日本列島がほぼ形成され、その後の氷期には中国やシベリアの大陸と陸続きになりました。この大陸と陸続きになっていた時に、マンモスやナウマンゾウ、オオツノジカなどの動物が、大陸から移動してきました。日本にいた旧石器時代人は、これら動物を求め大陸から移動し、住み着いた人々と考えられています。
この時代の人は、まだ土器の作り方を知らず、石を割って作った槍形や斧形などの打製石器を使って動物を捕ったり、木を切ったりして暮らしていました。豊橋では、この時代の人骨である「牛川人骨」が出土しています。
主な遺跡
縄文時代
東三河最古の縄文遺跡・嵩山蛇穴遺跡や、海浜部の貝塚群に当時の暮らしをかいま見ます。
縄文時代は、今から約12000年前から約2300年前まで続いた時代です。この時代は、人々が土器を作るようになるのが特徴です。人々は竪穴住居と呼ばれる家を建てて、ムラを作り定住しました。そして、木の実やシカなどの動物、マダイ・スズキなどの魚や貝を採って、土器で煮炊きして食べていました。これらの食べカスはまとめられて捨てられ、貝塚が作られるようになりました。
豊橋の縄文遺跡は、草創期には嵩山蛇穴遺跡などの洞窟遺跡があり、その後に集落遺跡などが多数見られます。遺跡数は晩期になると急激に増え、東海最大の大西貝塚に代表されるように、海浜部に貝塚が多く作られるという特徴があります。
主な遺跡
弥生時代
米作りが始まり、やがて小さなクニが東三河の各地に生まれます。
弥生時代は、紀元前3・4世紀頃〜紀元後3世紀頃までの約600年間で、これまでの狩りや採集の社会から稲作を中心とした社会へと移った時代です。稲作は、鉄や青銅などの金属と共に大陸から伝わりました。白石遺跡は遠賀川式土器を使った人々の集落であったと考えられています。
人々は、水田の近くに竪穴住居をつくって住むようになり、農具には鉄を用いて新たな水田を切り開いていきました。瓜郷遺跡では木製の農耕具が出土しています。
稲作による余剰品の有無などは、身分の差と戦いをもたらし、ムラとムラとの戦いへと発展していきました。この戦いは、いずれ小さなクニを生み、さらに大きなクニへとまとまっていきました。高井遺跡で見つかった、集落を囲む環壕は当時の緊張状態をよく表しています。
主な遺跡
古墳時代
愛知県最多の古墳数を誇る豊橋市。豊かな古墳文化が芽生えました。
古墳時代は、土を高く盛って造られた当時の有力者の墓:古墳によって、社会のさまざまな制度や秩序が表現された時代です。
古墳時代は大きく前・中・後期(終末期を含む)の3つの時期に分けられます。
豊橋市では、前期に権現山古墳群や勝山1号墳、茶臼山1号墳などの前方後円墳や前方後方墳が、丘陵の尾根線上に並んで築かれたほか、海に突きだした岬に前方後方墳の市杵嶋神社古墳が築かれました。
また中期には鳥文鏡などが出土した東田古墳が、後期には埴輪を持ち、2つの石室が確認された三ツ山古墳や穂国の大首長墳・馬越長火塚古墳をはじめ、恐らく600基を越える数の群集墳が山間部などに築かれました。
主な古墳
古代から中世
古代寺院の市道遺跡や、東三河での焼きもの作りの歴史をたどります。
古代の豊橋地方は三河国に属し、市域南部には渥美郡が、市域北部には八名郡が置かれていました。古代では初めて地方行政の単位として、各地方に国が、国の下に郡が置かれました。国には役所である国府と国分寺が、郡には郡衙が置かれました。当時、三河国では役所である国府や国分寺は現在の豊川市にありました。
豊橋市では渥美郡の役人をしていた豪族の館跡と氏寺と考えられる、市道遺跡と市道廃寺が見つかっています。
中世になるとこのような古代の役所は廃止され、武士が台頭し、各地に館ができます。豊橋市では牟呂公文町の公文遺跡のように方形の大きな溝に囲まれた館跡があります。
戦国時代になると小高い丘や山の上に多くの城が築かれました。豊橋市では石巻山城や月ケ谷城、船形山城などの多くの山城が築かれ、また、近世吉田城の前身である今橋城も豊川に面した丘に築かれました。
主な遺跡
近世
東海道53次の宿場町吉田・二川。吉田は城下町でもありました。
近世(江戸時代)になると吉田城の城下町として、さらに東海道の宿場町として、現在の市街地の元となった吉田宿が設けられたほか、市東部には東海道のもう一つの宿場町・二川宿が置かれました。
吉田城下では、様々な文化がはぐくまれていきます。山田宗偏によって茶の湯が広がり、また吉田藩の藩校「時習館」が開かれました。さらに国学が発展して羽田野敬雄らを輩出したほか、民俗学の祖として知られる菅江真澄も吉田の出身でした。このほか吉田の画人として、恩田石峰や稲田文笠らは優れた作品を残しています。
また農業技術の進展とともに、三河湾の沿岸部では新田開発が次々に進められていきました。これらは後の神野新田開発へと受け継がれていきます。
解説
明治時代から戦前
現在の豊橋の礎とも言える、産業・文化の成り立ちをたどります。
明治2年、吉田の町は豊橋に改称しました。明治4年(1871)、吉田藩を受け継いで設けられた豊橋藩は豊橋県となり、さらに同年額田県に統廃合されたのち、明治5年には愛知県に合併されました。
明治22年(1889)、愛知県で市制・町制が敷かれ、豊橋町が生まれます。さらに明治39年(1906)、豊橋市は全国で62番目に市制を施行しました。豊橋市の誕生です。
東海道線の開通にともない豊橋駅が明治21年に開業し、大正14年(1925)には市内電車も開通します。明治27年には電気が、明治41年にはガスが引かれました。また殖産興業策の一環として第八国立銀行が設立されたほか、教育面では県立第四中学校(現在の県立時習館高校)が開設されます。こうした新たな政策や文化がさまざまなかたちで押し寄せ、豊橋は着実に近代化への道を歩んでいきました。
このころの豊橋を最も象徴するのが、歩兵第十八聯隊など軍隊の設置による軍都と、また盛んであった養蚕業による蚕都としての一面でした。
軍都豊橋
明治17年(1884)、名古屋城内に設置された歩兵第十八聯隊は、明治19年に吉田城址(現在の豊橋公園一帯)に移駐しました。明治27年には日清戦争へ、明治37年には日露戦争へ参戦し、その後も豊橋と中国大陸との間を往復しました。
また、明治39年(1906)には陸軍第十五師団が設けられ、広大な高師原や天伯原を演習用地にしていました。戦後、十五師団の跡地には愛知大学が開校しましたが、愛知大学旧本館(師団本部:国登録文化財)や綜合郷土研究所、公館など、十五師団の建物遺構のいくつかは今も残されています。
軍隊の周辺では町が発展し、また兵隊が帰還すると、市民から熱狂的な歓迎を受けました。こうして軍隊は市民の生活と密接にかかわり、豊橋は軍都として発展していったのです。
第十五師団本部
(現・愛知大学旧本館)
蚕都豊橋
明治維新後、生糸は日本の重要輸出品目になり、明治政府は製糸業の奨励を盛んに行いました。
豊橋周辺の蚕糸業は、『日本後紀』の記述から奈良・平安時代までさかのぼることが知られています。明治15年(1882)、豊橋市で初めての本格的な器械製糸工場である細谷製糸会社が設立され、その後次々に製糸会社が設立されました。明治39年(1906)には県内生産量が全国で第4位になっています。
豊橋の製糸業の特色は玉糸製糸でした。安価な玉繭から糸を取り出す方法を、群馬県出身の小淵志ちが苦心の末発見し、二川の糸徳製糸工場で本格的な製糸業を始めました。こうして、二川・豊橋は「玉糸の町」として知られるようになったのです。

糸徳製糸工場の内部
市電
市電(市内電車)は、大正14年(1925)に開通しました。はじめは豊橋駅から出発して神明町交差点を北に曲がり、その後東へ曲がって東田方面に至る東田線と、神明町交差点を南に曲がって柳生橋に至る柳生橋線の2路線があり、また船町線の計画もありました。現在は東田線だけが残り、さらに延長して赤岩口行きと運動公園前行きとに分かれています。
当時の総工費は29万円で、全線の総延長は4.16キロメートルでした。また開通当時の運賃は、初乗りで1区間3銭からでした。
最近では市電を豊橋の街づくりに生かそうと、路線が延長されたり周辺の整備が行われたりしています。ゴトゴト走る市電の姿は、現在の豊橋の顔とも言えるものです。

戦前の市電

現在の市電
神野新田
江戸時代、豊川の河口では新田の開発が進みました。清須新田や高須新田、青竹新田、富久縞新田などがそうです。明治時代になると、江戸時代の新田の西側にさらに大規模な新田がもうけられました。これが神野新田です。
神野新田の開発は、明治22年に毛利祥久による毛利新田開発に始まります。災害で破壊された毛利新田を買い取った神野金之助は、人造石工法を用いて明治26年に潮止めを完成し、数々の困難を克服して明治29年にようやく完成しました。総面積1100ヘクタールに及ぶ大事業でした。
神野新田には豊橋以外の地から多くの入植者がありました。現在は広大な沃野が広がる神野新田も、入植当時は農作業に大変な労力を強いられたようです。
神野新田の堤防工事
国登録有形文化財
戦後から現代
戦後いかにして豊橋が復興したのか、そして新たに栄える豊橋港を取り上げます。
昭和20年(1945)6月20日の未明、アメリカ軍のB29・136機の空襲を受け、豊橋の市街地は焼け野原となりました。しかし戦後の復興に燃えた人々は、同年中には軍用地であった高師原の開拓に着手し、豊橋市南部一帯に広大な農地をつくりました。
市街地の戦災復興は計画的に行われ、豊橋市は商業・工業・住宅地域がはっきりと分けられた近代都市として生まれ変わりました。また、昭和29年には復興と進展をテーマにした豊橋産業文化大博覧会が吉田城址で開催され、116万人もの人々が会場に訪れました。
暴れ川であった豊川の治水を目的に、昭和40年(1965)には豊川放水路が設けられました。さらに昭和43年には豊川用水が開通し、水不足に悩む農家の人々に新たな希望を与えました。
昭和30年(1955)、町村合併により人口20万都市となった豊橋市は、経済発展のため大工場の誘致にも着手しました。さらに昭和47年(1972)に開港した豊橋港は、現在では国内有数の国際港として自動車の輸入で全国第一位となっています。
現在の豊橋市は人口約38万人を数え、愛知県東三河地方の中心的なまちとなっています。
豊橋港
国際貿易港・豊橋港は、豊橋市の新たな顔として、また臨海工業地帯の中心的役割をになう地域として、最近注目されています。
昭和38年(1963)に工業整備特別地域と重要港湾の指定を受け、三河港づくりと臨海工業地域の計画は進められました。そして漁業補償問題などの難問を乗り越え、昭和47年に豊橋港は正式に開港しました。
昭和53年には貿易港に必要な国の出先機関が設置され、国際貿易港となりました。現在では地の利を生かして国産自動車の輸出基地として利用されるほか、外国車の輸入拠点ともなっています。ヨーロッパの自動車メーカーが相次いで豊橋港付近に進出しており、自動車の輸入量は全国第1位となっています。

豊橋港
